「ありがとう」と 「すみません」
接客をしていると、お客様に
「ありがとう」
や
「すみません」
と言われる場面が多々ある。
この前、重い荷物を運んだ時
「重いのにすみませんねぇ」
と言われた。
きっとこの人は、申し訳ないと思いつつも、感謝しているからそんな風に言ってくれたんだろうな、と思った。もちろん、無言の人も居るわけで、そうやって言葉をかけていただけるのは嬉しい限りなのです。が…
また同じような場面に遭遇した。
今度は
「重いのに運んでくれてありがとう。」
と言われた。
…前者が嬉しい度50%だとしたら、後者は90%くらいの感覚。
言われた瞬間、ぱっと受け取った感じ、よりいい感じなのは、「すみません」よりも「ありがとう」だなっていう体感。
両者とも、似たような気持ちを表しているであろうはずなのに、受け取り方にはちょっと差がある。
言葉って不思議だな、と思った。
言葉って大事だな、とも思った。
だから私はこれから、感謝の気持ちは「すみません」よりも「ありがとう」で伝えたい。
子どもに対しても…
「自分の休み時間を使ってお手伝いしてもらってごめんね」
「つまらない授業を受けさせてごめんね」
じゃなく
「自分の時間を使ってまで先生のためにお手伝いしてくれてありがとう」
「つまらない授業なのに、先生の話を一生懸命聴いてくれてありがとう」
そんな気持ちや言葉を大事にしたい。
先生に対しても…
「私なんかのために指導の時間を割いてもらってすみません」
「本当は若手がやるべき仕事なのに、やってもらってすみません」
じゃなく
「時間を割いてまで指導していただいてありがとうございます」
「仕事をフォローしていただいてありがとうございます」
という風に。
今は先生じゃないけれど、
同僚に対して、友達に対して、はたまたお客様に対して…
「ありがとう」と「すみません」
普段、どちらをたくさん言っているだろう?
今日から少しずつ、
「ありがとう」の割合を増やしていこう。
と思った最近の出来事でした。
働きがいってなんだ?!
令和初の夏。ついに22連勤目に突入しました。
ここら辺から、ついに時給で働くアルバイトの限界を感じ始めております…。
今は時給1100円で、時間と労働力を切り売りしてお金を稼いでいるわけですが…
正直、先生と同じくらい稼ぐためには、生活のほぼ全てをアルバイトに費やす必要があります。今、私はそれを体現しています。
心は健康。体は疲弊。
先生時代は、心も体も満身創痍。
どっちがいいかと言われると、うーん、どっちもどっちだ…
というのも
最近、働きがいについて考えているのです。
今、毎日同じことの繰り返しなわけです。
(単純作業の時間が多い)
先生時代は、何かと予測不可能なことの連発で、子どもの成長に携わっているという使命感もあり、それがおもしろくもありました。
今は…?
みなさんの働きがいってなんですか?
うーん、難しいな。。。
メモ〜興味のあるテーマ〜
自分用のメモです。
そして目標を宣言することで、達成率をあげる作戦。笑
興味のあるテーマ
・チームビルディング
・教員の働き方改革
・愛とは?
・豊かな人生とは?
・学び合い
・家庭教育
・野外活動
・北欧の教育
これらに関して本を読んでインプットしようと思います!
分かりやすい目標をたてよう…
とりあえず、1ヶ月で10冊!
本当は毎日1冊が理想だけれど、それは無理そうだから、まずはハードル低めの3日に1冊から。
読んだ本はここでアウトプットしていきます!
学校の文化について思っていること
最近トーチトワリングが話題になっている。
私は、改善すべきはトーチトワリングだけではないし、今に始まったことでもないと思っている。
やけどをするからだめ。
もちろんその通りだ。
でも、学校において危険なものっていっぱいあると思う。トーチトワリングでやけどというのは、非常に分かりやすいから世間でも注目をされている。そういうものは、こうして淘汰されていくけれど、分かりにくいものがまだまだ学校に文化として残っているのではないかな。
去年1年の間だけでも、私の居た学校では、組体操ではピラミッドやタワーなし、高学年のプールは45分で1コマ、プールサイドに水筒持っていく(熱中症対策)、数年後から冬季野外活動の廃止(病院の遠い山奥でけがや病気などのリスクが大きい)…などの動きがあった。
ただでさえ多忙な教員。
人手不足の学校。
リスクのあることをしようとしても、それを見きれるだけの人もいなければ余裕もないんじゃないか。あと、トーチトワリングとかならなおさら、指導者の知識とかも必要だと思うけど、あれもこれもって無理がある部分もある気がする。
それなのに…日常の子どもたちのお世話で手いっぱいなのに、運動会とか、野外活動とか、子どものためだから…!という理由でどんどん教員の負担も増えている。
人が足りないとか、教員のボランティア精神なしでは成り立たないとか、それは教員内では周知の事実なのに、現状はやることが減るどころか増えるばかり…。
それは、昔から少しずつ増えてきたものが、残り続けているからなんじゃないの?
子どものためならなんでも詰め込めばいいの?
先生は自分の時間と労力をいくらでも費やしていいの?
ていうかそれはそもそも本当に子どものためなの?
そういう疑問の目って、先生してるとだんだんもたなくなってくる。私はそれがこわくなって退いたっていう背景もある。
とにかく、こういう現状って、子どもも、先生も、メリットがない気がするな…。
危険なことはもちろんないほうがいい。
だって学校は安全な場所であるべきだもの。
でも、あらゆることを断捨離しなければ危険は減らない。そして、業務改善とやらが進まなければ、先生はどんどん疲弊していく。子どものためと言われていることも、指導者の技量と人数がなければ成り立たないことが多いだろう。今の学校で、どれだけ、そういう技量を高めるための余裕や人材確保源があるのかな…。って思ってしまう。
今回の事件で、傷を負った子どもはとても気の毒だし、事が起こってからでは遅い。だけれど、そうやって世の中に、学校が抱えている問題が表面的にでも出てきたことが、学校を良い方向に変えるきっかけになればいいな、と思う。
働くというのは「○○を○○○する」ことだ
「働く」というのは
「はたをらくにする」ことだ
昔のバイト先の店長が
いつも言っていた言葉。
そして前職場では、最後の最後に
「はたらくとは はたをらくにすること だ。
君は らくにしてもらってばかり だったね。」
とのお言葉をいただいてしまい、つくづく「働く」って難しいな、と思った平成最後の春。
そう。私はいつも らくにしてもらって ばかりだ。
逆に、はたをらくにすること が上手な同僚がいる。
なんでだろうと思って観察していたら、
①圧倒的に声かけの量が多い
②人一倍、周りを助けている
③その分、助けられることも多い
って感じだった。
①
日常的な会話、つぶやき、などから、仕事のことまで。とにかく周りを気にかけている。そして自己開示もしている。「疲れたー」とか「明日休みで嬉しい!」とか。この人はこう考えているって分かりやすいだけで、周りとの関係がよくなる気がする。
あと、できることはできると言う。そしてやる。できないことはできないと言う。そして周りに仕事を振る。
そして気遣い。「あれは○○さんは悪くないですよ」とか「あのミスは自分でもやっちゃってたと思いますよ」とか周りの人のフォローをさりげなくしている。
要はコミュニケーション能力が高い。
②
声をかけながら、どの人が何に困っているのかとか、どこで手助けすればいいのかに気づいている。だから、よく助けている場面を見る。私もよく助けてもらっている。まさに はたをらくにしている のだ。
③は意外だったけど、いつも助けてもらっているから…という気持ちで、助けられることが多いのだろう。
それと、ささいなことでも大げさなほど感謝を伝えている。
「え!これもうやってくれたの?仕事が速い!ありがとう!」
「うわぁ〜!とても助かる!ありがとう!」
という風に。
こんな感じで言われたら、助けてよかったな、また何かあったら手助けしよう、となるよね。
そして
前提として、本人がけっこう仕事ができる
っていうのがある。
効率がいい。要領がいい。動きが速い。量をこなす。
自分の仕事をそつなくこなした上で、周りもらくにしているのだからそれがすごい。というか、自分のことができていてなおかつ周りに気を配る余裕がある人じゃないと、はたをらくにはできないのだろうな。
はたをらくにできる人になりたい。
先生でも、そうじゃなくても、チームで何かをする上で、お互いをらくにし合うことは大事だよね。
さ、明日からも はたらく ぞー!
150円で幸せを買う
私には大学時代から愛用しているボールペンがある。
1本150円。
この前、物は試しと思って2本108円の3色ボールペンを買ってみた。
そして今日、インクを使い果たしたので、予備に持っていた愛用ボールペンを使った。
そしたら…
とても書きやすくて驚いた。
その書き心地に慣れすぎて気づいていなかったけれど、愛用ボールペンはやはり書き心地抜群だったのだ。
2本入り108円のボールペンが、けっして使い心地が悪いわけではなく、なんの問題もなく使えたけれど…私はこれからも愛用ボールペンを使おうと心に決めた。
好きなものを使う。これってけっこう、豊かな人生につながっていると思う。
たかがボールペン、されどボールペン。
でも、お気に入りだけを手元において暮らしたい。
そうやって幸せのハードルを下げに下げまくって、ボールペン1本で嬉しい気持ちになれるって、コスパいいと思いませんか?笑
高い夢や目標をもって生きるのも幸せであるけれど、それだけにこだわってしまうと途端に生きづらくなっちゃうから、日々の中にどれだけ小さな幸せポイントを見いだせるかが、人生を豊かにするコツだと思った。
だから私は、150円握りしめてボールペンを買いに行こう。150円で幸せを買うのだ。
とびばこ記念日
1年前の今日、人生で初めて跳び箱がとべた!
だから今日は「とびばこ記念日」。
初めて跳び箱の向こう側の世界に降りた時、感動のあまり涙が出てきた。
今まで跳び箱のみならず、体育が大っ嫌いだった。努力ではなんとかできない、才能勝負の世界だったから。特に、持久走でいつも最後まで走っていたのとかはもう地獄でしかなかった。逆上がりとか、技術系ももちろんできない。
そんな私が、なぜとべたのか?
器械運動の専門の先生に、連日特訓をしていただいたのである。
それまで、とびばこ上手な友達、大学の先生…いろんな人に教えてもらって練習したけれど、1度もとべたことがなかったのに、ものの2週間くらいでとべた。しかも、そのうち先生に見てもらったのは2〜3日。
2週間で何をしたかというと、
なぜ器械運動を扱うのか?から、どうして跳べないのか?どこをどう動かせば跳べるのか?どんな練習が必要か?などを、理論的にひとつずつ教えてもらった。そして、あとは実践あるのみ。苦手を克服するための練習をひたすら繰り返した。
例えば、私の最大の苦手は恐怖心だった。
だから、補助ありでとんで、とにかく「箱をとびこす」という経験を積んだ。このようないわゆる成功体験はとても大事らしい。とべない子はそもそも、とべるという感覚を知らないのだ。
次に鍛えたのが、ジャンプ力。恐怖心はメンタル的な問題だが、物理的にジャンプ力が足りておらず、跳び越そうにも無理があった。それから毎日かえる跳びは欠かさず練習した。あとは、ひたすらステージ上にとび乗る練習。
ただ身体能力が低いだけだと思っていたが、そうではないらしい。跳ぶ時の姿勢、目線、脚の使い方、手の位置…など、抑えるべきポイントがいくつかあるようだ。もちろんそんなもの知らず、気合だけで跳ぼうとしていた私は、そりゃいつまでも跳べないわ!と思った。
これらのポイントを、無意識にできるようになるまで練習を重ねた。
そしてひとつずつ課題をクリアしていって、補助ありで跳ぶ。自転車の練習と同じで、本人が知らない間にいつのまにか補助なしでできた!という瞬間があった。それをちょっとずつ増やしていって、最後は完全に補助なしで跳べたというわけである。
私は思ったことがある。
まず、純粋に、できないことができるようになるのは嬉しい。
そして、できないをできるにするのに必要なのは気合いではなく、プロに導いてもらうこと。
気合いもあればいいが、何をすべきかも分からないままやみくもに突っ走っていっても空回りするだけ。ゴールが見えない道を延々と走っているのと一緒。ゴールを知っている人、そこまでの道のりの歩み方を知っている人に教えを請うのがいい。
これがきっかけで、私は体育が少し好きになった。ぜひ子どもたちにも、こういう経験をしてほしい。できなかったことができた!という経験。きっと体育だけではない。人それぞれ苦手なことはあると思う。やったことがないこともあると思う。だからこそ、成功体験を積ませてやるのは先生の仕事の醍醐味のひとつであると思う。それに携わることができるのが先生という仕事。いいなぁと思う。
体育だけじゃなく、あらゆる場面で「挑戦」「できた!」を増やしていきたい。特に子ども時代にそういう経験をしておくと、自己肯定感も高まるし世界も広がるし、いいと思うな。
写真は当時のまとめノートの一部。